セロニアス・スフィア・モンク(Thelonious Sphere Monk、1917年10月10日 – 1982年2月17日)は、アメリカのジャズ・ピアニストであり、即興演奏における独特のスタイルと、数多くのスタンダード・ナンバーの作曲で知られる。
モンクの死後、モンクの音楽は幅広い聴衆によって再発見され、彼は今日では、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンなどと並び、ジャズの歴史に於ける偉大な人物の一人に数えられている。1989年、クリント・イーストウッドは、モンクの生涯と音楽についてのドキュメンタリー、 『ストレート・ノー・チェイサー』(Straight, No Chaser ) を制作している。
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Thelonious Monk / セロニアス・モンクの経歴
彼の人生の初期については、殆ど知られていない。ノースカロライナ州ロッキーマウントに生まれ、その後間もなく、彼の家族はニューヨークへ移り住んだ。6歳の時にピアノの演奏を始め、多少の正式なレッスンを受けてはいたが、本質的には独学と思われる。
10代の頃にはある福音派の伝道者とともにしばらく各地を回り、教会のオルガンを弾いていた。10代の末頃に、彼はジャズ演奏の仕事が見付かり始めた。
40年代初頭より、ジャズ・ピアニストとしての活動を始める。彼の演奏スタイルは、この頃は「ハード・スウィンギング」と呼ばれる類いのもので、 アート・テイタム(Art Tatum) のスタイルに近かった。1944年にモンクは、自身の最初のスタジオ録音を コールマン・ホーキンス・カルテット(Coleman Hawkins Quartet) と共に行っている。1947年にネリー・スミス(Nellie Smith) と結婚し、同じ年に彼のバンド・リーダーとしての初めての録音がなされた。1950年代と1960年代を通して、モンクは巡業と録音とをこなした。
1954年12月24日、プレスティッジ・レコードからの要請でマイルス・デイヴィスのレコーディングに参加するが,
アルバム『マイルス・デイヴィス・アンド・ザ・モダン・ジャズ・ジャイアンツ』収録の「ザ・マン・アイ・ラヴ(テイク2)」では、モンクがピアノ・ソロを途中で止め、それに対して怒ったマイルスが自分の出番でもないのにトランペットを鳴らすという、緊張感のあるやり取りが録音された。
1970年代の始めからは、舞台から姿を消した。1971年11月に彼の最後の録音が行われ、彼の生涯の最後の10年間はごく数回の演奏が行われたのみである。幾つかの情報源によれば、モンクは双極性障害(躁鬱病)に苦しんでいたという。
1982年に脳梗塞で亡くなり、ニューヨーク州 ハーツデイル(Hartsdale) にある、ファーンクリフ墓地(Ferncliff Cemetery)に埋葬された。